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乱歩と鳥羽―400日の軌跡ー

その4 大正6年の鉄道事情②

                         (鉄道省時代の時刻表)

 京都鉄道博物館の所蔵資料は、コピー厳禁だった。もちろん写真撮影も不可。だから、上記の資料は博物館で私が閲覧した物ではない。念のために断っておく。

 大正3年第一次世界大戦がはじまり、イギリスはじめ欧州先進諸国の重工業を中心とした「世界の工場」としての機能が著しく低下した。砂糖、樟脳、繊維などの軽工業製品の貿易で業容を拡大してきた鈴木商店はこの機に乗じ製鉄、造船など重工業への転換を図った。

 大正6年鈴木商店は安田合名から鳥羽造船所の経営権を買い取り、船渠を増設して造船能力を1.5倍に拡大し、艤装のための電気部も新設、関西地区から大勢の技師、職工を送り込んだ。

 乱歩が鈴木商店鳥羽造船所に職を得たのもこのような事情による。

 大正6年11月11日日曜日、大阪湊町発午前8時過ぎの関西線亀山経由鳥羽行きに乗った乱歩は、午後1時30分過ぎ鳥羽に着いた。三等運賃2円48銭、5時間半の旅だった。

西からの寒風が吹く鳥羽駅に降り立った乱歩は、そこからわずか10分ほどの鳥羽造船所に向かった。そこには鈴木商店本社から連絡を受けていた庶務課員が待ち受けており、社員俱楽部の一室に案内され、そこが乱歩の最初の住居となった。乱歩はわずか1年2ヶ月の間に4度住居を変えることになる。

最初の給与は二十円だったという乱歩の鳥羽時代の始まりである。

(この項終)

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